異文化間を移動する人間と学習

認知心理学の学習理論

 あらゆる人間の営みを条件反射としてみる行動主義が人間の認識を考える上で限界があることが明らかとなり,あらゆる人間の営みをいわば知識の問題と考える認知主義が誕生した.
 認知心理学では,学習を知識の獲得、生成、変化のプロセスであるととらえる.知識はif〜then−の形で何らかの記号的な形で明示的に記述可能されることができ,また命題を実行するための膨大なデータベースを駆使して,人間は行為を行う.また外界の情報を取り込むといってもランダムに全ての情報を取り込もうとしているのではなく,人間の行為自体が目的指向的であり合目的的であると想定されている.
 そこで認知心理学における学習研究は,知識の束に新しい知識が加わったり,関係や構造が組み変わっていくことが,どうして,どのようなメカニズムで起こるのかを問題にする.(何をすべきかが明示的に表現された記号が,脳内に蓄積するあるいは命令文を書き換え生成するプロセスとして学習を見る)
 そして,認知心理学においては,文化間の移動と状況の間を移動する学習の関係=転移transferという概念でとらえる。
 一つの状況で獲得された知識を、別の質的に異なる状況で使う場面において,学習のtransferは,大体においてうまくいかない.
 知識は,利用可能性の高い状態で持っていることが基本的に重要であるが,ある文脈で得た知識は,ことなる文脈では使えないことがよくある(応用がきかない)。認知心理学では,よりうまく使える知識を作って、より広い文脈で使える一般性を持った知識を形成して使うことを目指し,そのような知識の生成と獲得を目指すことになるため,移動の問題は脱問題化する.
 認知心理学では、客観的実在としての外界を想定しているが,その問題解決の経路からは,必ずある種の適応性をもった一つの答えが生成されてくる.つまり学習とは,正解や正解を導き出す方法を身につけることであるという発想であり,文化間の移動によって,問題解決に支障をきたすようなケースは,よりジェネラルな知識を生成していないことが問題であるとされてくる.
 しかし,そのような認知心理学的なものの見方,知覚から行為が適応的に起るという対応説は,状況論的アプローチから批判を受けた.すなわち,知的であることは個人の属性ではなく,個人と他者ないし環境のインターラクションの問題であって,知的であることを記述するには,システムが依拠している環境の性質とセットで記述しなければ,本当に記述したことにはならない.
 J.Brunerは,人間にとっての意味≠ニいうものが情報≠ニか記号≠ニいう言葉にすりかわっていると認知心理学を批判し,認知科学が想定するような見方,つまり,外界に正解の根拠となるような世界が存在し,それに基づいて正解を導き出す発想は文化的不可能性を持っており,現実的な人間の問題を扱うときにできないこと主張した.
 認知主義では,世界を相対的なものとしてみるという,事実的な傾向が強い.
 しかし環境を取り込んで記号と変換する際,どうして外界の事物を事物として認識できるのかの説明がなかった.外界の事物の切れ目とか,どこから発生してきたかの説明ができず,立場や文化によって同じものが別の見方で現れてくることを説明できなかったのである.
 つまり,人間は,現実問題としての多様性の問題や文化的な多元性を考えると,自分なりの答えを生成するものであり,それは認知心理学ではとらえられないのである.
 Brunerは,環境との関わりの中で意味を作っていくことよりも,他者との関係の中で,意味を共同的に作っていくこと(ネゴシエーション)に力点をおいた.それにより,学習を,情報のプールや生体としての環境世界から情報を身につけてくるプロセスではなく,人々が他者と関わりながら世界を意味付けていくプロセスとしてとらえた.
 しかし,Brunerのおかした間違いは,人々をある一定の同じレベルで振る舞わせるメカニズムや意味や行為の根拠として,文化の概念を持ち出してきたことにある.
 すでに存在している人たちの中に,学習者は新たに参入してくるため,結果的に同じ行為が出てくる.環境は人々との共同的な関係から生まれるから,人々の関係性を分析を行った.しかし,Brunerが批判した情報処理アプローチの,客観的な外的環境への適応的行動が,文化への適応的行動へとすりかわったことになってしまったのである.

 

正統的周辺参加論(LPP)

 現在注目されている正統的周辺参加論のJ.Laveは,道具や環境のネットワークの中で,スムーズな位置を占めることで,歴史的社会的実践の現場の中に参加していくプロセスに注目した.
 Laveは,学習は、基本的には構造化された実践のシステムがあり、その実践のシステムの中である役割を個人が担って活動する(実践の構造に支えられて実践に参加する)ことが学習の基本構造であると考える.
 人々が日常生活の中に関わっていくプロセスとしての学習であり,ある実践共同体に,正統的(仲間として互いに承認しあう)かつ周辺的(重要度の低いものから関わっていく)に日常的な社会的実践を含む形で参加していき,その参加形態が本質的な部分へと十全に変化していくことが学習の一般経路であるというのがそのとらえ方の骨子であり,参加とは,全人格的に参加していくことで,そこで技能の獲得や社会的関係の変化が起っていく.
 つまり,自分の行為と共に自分のおかれた状況が変化して、状況が変化することによって自分の行為や技能が変化していくととらえ,知識や技能の変化と同時に,実践共同体内部での社会的関係の変化があり,この不可分のプロセスを繰り返して,その中でアイデンティティの確立が起っていく.
 しかし,LPPの問題点では,認知主義とは異なる意味ではあるものの,やはり文化の間の移動の問題をとらえられない.
 つまり,社会的実践の場が決定されてから学習が起るという発想であるから,既存の実践共同体への参加を前提とすることによって,実践共同体との兼ね合いでしか個人をとらえられず,所属する実践共同体を変わった瞬間に,文化的白紙状態に一様に戻されてしまう.また個人の均質化が起ってその人個有のあり方がとらえられず,やはりそれではリアリティがない.
 また,移動の概念も,LPPの想定する概念,つまり所属する実践共同体を変わった瞬間に周辺的参加者に一様に戻るため,移動すれば必ずや知識はゼロに戻らざるを得なくなり,はじめから検討できないことになる.
 この問題は,Laveが,伝統的技能集団における参加を想定していたために起っていたものだけではない.
 LPPをさらに展開したWengerは,複数の実践共同体を,一個の実践共同体の中のサブカルチャーとして記述することで,Lave流のよりもはるかに微妙で複雑な当事者たちの学習プロセスを記述し,実践共同体内部でのプロセスを複雑化した.隙間共同体とよんだその共同体は,あるメインの実践共同体の構造に対する反応として、二次的に作られている実践共同体である.
 また実践共同体内部のプロセスを複雑に記述するだけではなく,現実的に,一個の人間が複数の実践共同体に同時に参加している構造を,多重成員性と呼んだ.
 その本人は,複数の関係の中の結び目におり,多様な実践共同体の中に同時参加することで,メンバーシップをつくると同時に,そこで生じる緊張関係をどうにかしなければならない.Wengerは,それを諸成員性間の結節と調停とよんでいるが,それでは,誰が調停をするのかという問題がある.
 この場合,調停者=学習者であって,結局は,もっとも重要な学習主体は個人ということになる.
 しかし,もともとLPPは,学習とは個人の営みとか努力の問題ではなく,社会的関係性の問題であるということでインパクトを持った理論である.
 だが複数の実践共同体でものを考えはじめた途端,学習の最終責任が個人にもどってしまった.認知主体としての学習者が,再び現れたのである.このことは,社会空間的拡張戦略の本質的な論理的困難さを示している.
 このLPPの,個人が実践共同体に周辺的に参加していくというある種二次元的な見方を自らの体験から批判したHodgesは,周辺性と,それとは位相の異なる周縁性との交差点に,学習という概念が生じてくると論じた.
 周辺性を,その実践共同体内部でよしとされるものへの参加のプロセスであると説明するならば,周縁性は,その実践共同体と学習者が絶対的に相容れることができない距離である.学習者は,絶対的距離を保ったまま,周辺性を縮めていくしかない.
 そこには,社会空間をできるだけ複雑に記述しようとする拡張戦略に関する問題提起が、Hodgesの議論に含まれている.
 従来の見方では,時間の要因が含まれておらず,空間的配置のみが含まれている.それゆえに,論理的には文化的白紙の問題が起らざるをえない.そこから,移動と学習がとらえられなくなっていた.
 また,複数の実践共同体の問題を考える時には、空間的にそれを配置してその間の関係性を論じても,それらの間で動き回る個人を中心的な学習者とせざるを得なくなるため,LPP自体の原則と矛盾することになっていた.
 Hodgesは学習者の状態を,いままで実践共同体における役割性しか見られてこなかったが,役割性と固有名性の二つの位相に分けた.
 時間的に発達するシステムとしての個的なプロセス(Hodgesはライフヒストリーの構造を重視している)と、それから静的に空間的に定義される実践共同体のような、時間的なものと空間的なものの原理の交差点に,参加するという概念が生まれるとする。
 しかし,Hodgesにしても,記憶を主体とした認知主体として,個人の負荷が大きくなることが問題点とならざるを得ない.しかし,この周辺性と周縁性の交差点への注目は,切り口として非常に説得的である.

 

日常的な問題としての,移動と学習

 移動の問題は,交通手段や情報通信,経済活動の拡大化にともなって,国家をある一つのまとまった単位として成立させている我々にとって,ますますリアリティを帯びた問題になっている.しかし,現在における移動と学習の問題は,システムや文化が異なるという点が注目されやすい文化間移動や国家間移動のみではない.
 つまり,我々の生活自体が基本的なところで,移動を前提にして営まれているようになっていて,例えば職場、家庭なども「移動」の対象となっている.固定的ではなく,多元的な生活あるいは人生自体が,非常にリアリティを帯びてきた。
 しかし、従来の心理学、特に狭い共同体や一部の状況を原理的に対象としている心理学では、我々のライフスタイル自体をまったくとらえられない。
 認知心理学が犯したある意味で致命的とも思える根本的間違いは、環境と十分な接触がない状態で、人がどう考え、行動するか、の研究方法にある。人が「不自然な」状況でどう行動するかを調べて分かったことを組み合わせていって、自然な状況にある人がどう行動するかについての出来事と矛盾しないという保障はないであろう。
 話を元に戻すと,我々の最も身近な部分で,移動の構造が最も端的に表れるのは学校である。つまり、生徒は学校に入学し、いずれは卒業する(移動する)場であって、システムとしての学校は、移動社会としての例としてとらえられる。また、Wengerも多重成員性として指摘したように、人間は多くのコミュニティに同時に所属しているが、それを個人の問題に帰結させてしまうと、完全に自律的な主体自体が存立し得ないと考えられている現在では批判の対象になる。
 つまり我々は、世界と密接に関連しながら自己を構築していくというアイディアの一方で、そうした関係構築はある種の主体性を持って活動しているという事態をとらえるであろうということが問題になる。
 我々が社会との関わり合いの中で生活する中で、統一した主体として成立するプロセスを考える上で、

・我々の社会のリアリティは、多元的な世界における活動の上に成り立っていること
・はじめから自立した主体を立てることはできないこと

を前提としなければならない.
 システムが人間によって生み出されたことは自明であるが,システム自体に人間が本質的に発達的な影響を受けていることも,また明白である.
 そこで,社会システムの,いわば「系統発生」がどうなっているのか,という切り口からも,移動と学習の構造に迫ることが出来る,一つの可能性になるのではないだろうか.

 

REFERENCE

1.エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学−生体心理学への道−』細田直哉訳,新曜社,2000年.
2.倉石一郎「「文化」心理学における他者なきナルシシズムの問題−高木論文へのコメント−」心理学評論vol.43,2000年.
3.高木光太郎「行為・知覚・文化−状況的認知アプローチにおける文化の実体化について−」心理学評論vol.43,2000年.