記憶障害は、注意・集中の困難さと並んで、比較的軽度の脳損傷後においても最もよく見られる後遺症の一つである。記憶や学習が、日常生活の様々な昨日のほとんど全ての面において、統合的な役割を果たしていることを考えると、記憶障害は、特に注意の機能異常と結びついた場合には、脳損傷がもたらすもっとも深刻な結果であるといえる。 記憶障害の研究は、重度のてんかんの治療のために海馬を含む広範囲な皮質切除を受けた結果、重篤な記憶障害を呈したH.M.という患者の研究から始まった。それによって、海馬を中心とする側頭葉内側部の諸構造が記憶の神経基盤の中心であると注目されるようになり、またH.M.のような重篤な健忘性患者でも保たれている記憶があることが示された。
また、記憶の減退は、生理的には老人に見られ、忘却や健忘の形を取って表れる。忘却は、一般に新しいものが古いものより早く忘れられやすい傾向がある(リボーの法則)。さらに、過去の記憶は多少なりとも変形を受けるので、記憶減退には錯誤記憶や偽記憶を伴いやすい。 したがって、健忘を単にある事柄を思い出せない症状と定義するのは、単純すぎるきらいがある。その上に、ある事柄を思い出せない症状があるといってもそれがすべて健忘amnesiaと言う呼び方が適当であるとは限らない事はさらに明らかであることに、留意しておく必要があると思われる。
健忘には、何らかの心理的要因で起こる心因性健忘と、器質的な障害による器質性健忘がある。
心因性記憶障害健忘
多岐にわたる心因性障害の中で、ここでは、特に心因性健忘、心因性遁走、多重人格障害に限局する。
心因性健忘
心因性健忘には4つのタイプがあり、一定期間のことすべてを思い出せない限局性、一定期間内のいくつかの事しか思い出せない選択性、人生すべてを思い出せない全般性、ある特定の時期から現在の事を思い出せない持続性健忘がある。
障害の頻度自体はそう多くはない。発症年齢は、青年や若い女性に多く見られ、高齢者にはほとんど見られない。心理的・社会的ストレスにより、引き起こされると言われている。回復は完全で、再発は稀である。
心因性遁走
心因性遁走とは、家族あるいは職場から突然逃走し、新しい自分を装い、以前の自分自身に関する想起が不可能な事を指す。回復後には、遁走中に起こった事の想起ができず、人格の変容などからまったく新しい社会生活を営み、精神障害と分からない場合もある。
原因として、心理的・社会的ストレス、夫婦の対立、対人拒絶、過度のアルコール摂取、天災などが挙げられる。遁走期間は、数時間から数日であり、再発はめったにないと言われている。
多重人格性障害
一人の人間に複数の人格または人格状態が存在する状態。人格とは「その人間の自我、および環境を認知し、関与し、思考する事の持続的様式」と定義される。つまり、人間は、連続したものとしての自我を通常有し、行動が一貫しているということである。
障害における人格の交代は突然で、心理的・社会的ストレスや環境的要因が誘因となる。人格が独立している様式と、人格間に共通のものが見られる場合があり、別人格の時の記憶を持っていない例が多い。
発症年齢は小児期であるが、臨床的に露見しない場合もある。慢性化しやすく、小児期に受けた虐待や心的外傷が、多重人格障害より先に見られる。
心因性記憶障害のメカニズム
コーペルマン(1987)は、心因性記憶障害の発症メカニズムとして、@情報記銘の符号化障害説、A忘却願望あるいは抑圧説、B情報検索の障害説、の3つを挙げている。
@は、健忘は異常な情緒または極度な覚醒状態下で生じるのが一般的であり、異常下における正常な認知処理の阻害によるもの、である。
Aは、特に精神医学、臨床心理学の場面で扱われる事が多い心因性障害の説明にとっては、支持されやすい。実際に、不快な出来事より快感情を想起する出来事のほうが、想起されやすいことは、実験的にも確認されている。しかし、そのことは感情価では説明不可能という説もある。また、抑圧が生じる際の、それに拮抗しようとする衝動の役割の考慮の必要性もいわれている。
Bは、普段の状態と健忘が起こる時の状態が違い、健忘時の状態の経験を検索できないというものである。
器質的記憶障害
神経心理学とは、1864年のP.Brocaの報告した運動失語に端を発し、病巣と臨床象との対応から、脳の特定部位と機能との関係を構築しようとしてきた領域である。現在は、脳血管障害による研究が主流で、資料のように、いかにもpure
caseを収集しているかのように研究が書かれているのは、誤解を招きやすくきわめて問題が大きい。
神経心理学的研究で、特に言及すべき患者は、H.M.およびK.A.である。彼らの受けた記憶に関する生涯から、認知心理学的記憶モデル、例えばアトキンソン及びシフリンによるモデルのように、記憶がそれほど単純な機構を持っているのではなく、機能的に複雑な機構を保持している事が明らかにされている。
H.M.は、重度のてんかん発作の治療のため、両側性の内側側頭葉の切除を行われた。従来、てんかん治療のために側頭葉内側部を一部切除する手術は行われていたが、H.M.の場合、特にてんかんが重篤であったため、非常に広範囲の切除を行ったのである。
その結果、逆向性健忘と特に重度の前向性健忘の症状を呈するようになった。H.M.の切除部位が広範であったため、明確な解剖学的構造と機能との対応付けはできないが、海馬、海馬および扁桃核、側頭葉峡部などが関係するという、それぞれの説がある。しかし、手続き記憶とプライミングのような、非陳述記憶は保たれていた事から、そのような記憶は、解剖学的に別の場所に保たれている事が示唆された。
H.M.氏とは別に、フェンシングの事故によって間脳の左視床に損傷を受けて、前向健忘を呈したN.A.は、その障害部位は背内側核まで及び、両側性に視床下部後部(おもに乳頭体)にまで損傷が及んでいる。N.A.は、story
recall、短期記憶干渉課題、幾何学図形記憶課題、対連合学習で、統制群よりも有意に成績が低下している。遠隔記憶に関しては、逆向健忘はほとんど見られず、むしろ重度の前向健忘が見られた。
N.A.の記憶障害は、主に言語性であるが、それによって単純に左側部位と対応付ける事はできない。言語の左半球優位性は、言語表出はともかく、言語理解に関しては、相対的な優位を示すにすぎない。言語について、皮質下損傷で失語のように見えるものは、皮質下損傷によって、皮質と皮質の連絡をする白質が切られているからであると、N.Geschwindは主張している。
また、Damasioらは、前脳基底部の損傷による記憶障害5例を紹介している。患者らに共通して見られた損傷は、前頭葉下側後半部である。
Damasioらは、これらの記憶障害は、前脳基底部の損傷により、二次的に引き起こされた海馬系の障害であると推測している。また、神経伝達物質を生成する細胞やそれらの伝達経路に障害を受けている可能性があり、これら記憶障害は、神経伝達物質の障害である可能性も、否定できない。
Damasioらが報告した患者に共通するものは、情報の学習はできるのに、その結合ができない事、学習をした時間関係がわからないこと、作話をする事、手がかりを与えられれば成績が向上した事、である。
a.健忘症候群――エピソード記憶の障害(健忘)で、一定期間の追想の欠如
前向健忘――意識回復後の、一見正常と思われる時期にわたっての健忘
逆向健忘――意識障害時より以前の、健康な時期にさかのぼってまでの健忘
特徴
近時記憶(新しい情報の獲得)と遠隔記憶(再び再生される記憶)が障害。ただし、即時記憶(順唱や逆唱などで測定)は保持。
意味記憶、手続き記憶やプライミングのような非陳述記憶は保たれる。
純粋健忘症候群とコルサコフ症候群
純粋健忘症候群
記憶の障害のみ
海馬を中心とする側頭葉内側部の障害で見られる(特にアンモン角CA1に限局した病変例)
一過性全健忘の発作中に、側頭葉内側部の機能不全が見られる
逆行健忘が比較的短い
コルサコフ症候群(慢性アルコール中毒、頭部外傷、一酸化炭素中毒による)
記憶障害だけでなく、見当識障害、作話といった他の認知障害や病態失認を伴う
大脳の乳頭体、第三脳室周辺、間脳、前脳基底部の障害
アルコール・コルサコフ症候群の場合視床背内側核が有力(選択的な乳頭体病巣の報告例も)
血管障害例の場合、乳頭視床路(乳頭体から視床前核へ至る経路)や内髄板の損傷例が多い
逆行健忘が長期で時間勾配temporal gradient(発症時点に近い記憶ほど傷害を受け、遠い記憶ほど保たれる)が顕著だが、視床の一側性限局病巣ではほとんど逆向健忘を伴わず、特に右側損傷の場合は健忘の程度も軽い
側頭葉内側部や間脳の障害例では、左半球と言語性記憶障害、右半球と非言語性記憶障害との対応が示される場合もあるが、前脳基底部病巣例では左右病変での様式特異性は指示されていない。
そこで、病巣部位に対応した呼び方がなされ、前脳基底部の構造物は下記の二つの閉回路を介する。
Papezの回路とYakovlevの回路
Papezの回路 大脳辺縁系の情動に関連する閉回路
海馬−脳弓−乳頭体−乳頭視床路−視床前核−帯状回−海馬
Yakovlevの回路
扁桃体−視床背内側核−前頭葉眼窩面皮質−鉤状束−側頭葉皮質前部−扁桃体
さらに前脳基底部にはコリン作動性ニューロンがあり、中隔とブローカの対角帯核は海馬体、マイネルトの基底核は扁桃体との間に線維投射を有し、互いに密接に連絡しあっている。
内嗅皮質や海馬傍回を経由して扁桃体と海馬の連絡、もしくは海馬と視床背内側核との連絡なども指摘される。
b.意味記憶の障害
意味記憶――いわゆる知識
意味記憶が傷害される病気として、
アルツハイマー病では、まずエピソード記憶の障害が目立つが、病態進行につれて意味記憶の障害も見られる。
ピック病では、早期から意味記憶の障害が目立つ場合があり、左側頭葉前部の障害の場合、語義失語が生じる。しかし、使用障害も含まれる例も報告されているため、対象の意味全般に及んでいる可能性もある。
右半球の側頭葉前部障害の場合、顔の意味記憶が障害される場合が多い。相貌失認とは、声を聞いても人物同定ができない点で異なる。また、顔はわからなくても、人物像は保持されている。前向性に新たな意味記憶を形成することは困難である。
ストアの障害かアクセスの障害か
貯蔵された意味情報そのものが失われているのか、それとも情報へのアクセスに問題があるのか。
意味記憶障害のカテゴリー特異性
生物と非生物では、成績が異なる
異なる領域に貯えられている(Nielsen)
感覚システムと機能システム、視覚的システムと言語的システム(Warrington&Shallice)
変数の統制(頻度、概念の親近性、視覚的複雑さ)の失敗(Funnell&Sheridan)
→生物と非生物の分化されたカテゴリーを組織化するという理論を裏づける納得できる出来事はない
c.手続き記憶の障害
手続き記憶――反復により次第に習熟する技能。非常に強固で、大脳基底核や小脳が関係。アルツハイマー病などにより大脳が広範に冒されても、手続き記憶は残ることが多い。H.M.は、運動技能学習の他に、知覚性技能学習(鏡映読字課題)、認知性技能学習(ハノイの塔、トロントの塔)も保たれていた。
ハンチントン病、パーキンソン病、進行性核上性麻痺では、手続き記憶の障害が起こる。他にも、小脳梗塞や小脳変性症でも、運動手続き記憶の障害のみならず知覚性や認知性手続き記憶の障害が報告されている。
手続き記憶の神経解剖学的基盤は、これらの疾患で冒される大脳基底核や小脳が想定されている。PETを用いた研究でも、運動に関する領域の関与を示唆している(皮質、線状体−黒質、小脳系、一次運動野、補足運動野および視床枕)。
d.プライミングの障害
プライミング現象――先行刺激が後続刺激の処理に促進効果を及ぼす現象
エピソード記憶の神経基盤とは別の大脳皮質連合野が想定されている。
e.情動と記憶――一般に、強い情動体験と記憶は結びつきやすい。
情動には扁桃体が関係している。扁桃体が選択的に冒される病気に、ウルバッハ−ビーテ病がある。
動物実験の結果を人に適用することは困難で、なおかつヒトの情動体験の統制が困難である。
Cahillらの実験――健常者とウルバッハ−ビーテ病患者の情動記憶の検討→患者は情動反応が正常にもかかわらず、強い情動を喚起する刺激の記憶と喚起しない刺激の記憶に変化は見られなかった。そのことから、扁桃体の役割は、情動の喚起よりも、情動に基づく記憶の強化
Ikedaら――阪神大震災の体験をしたアルツハイマー病患者の研究→阪神大震災を経験し、その後MRIを受けた患者。重度の痴呆患者でも、地震を思い出した→極度の情動の関与
f.記憶の検査法
脳損傷患者の臨床では、記憶障害の評価は重要である。紹介されているものの他にも、長谷川式簡易痴呆スケールなどもある。
WMS(ウェクスラーにより開発)WAISと相補的な関係
(1)個人的・時事的情報
(2)見当識
(3)心的操作
(4)論理(物語)記憶
(5)数唱
(6)視覚再生
(7)対連合学習
WMS-R
(1)情報と見当識
(2)心的操作
(3)図形記憶
(4)論理記憶(即時再生)
(5)視覚対連合学習(即時再認)
(6)言語対連合学習(即時再生)
(7)視覚再生(即時)
(8)数唱
(9)視覚記憶スパン(ブロック叩き検査)
(10)論理記憶(遅延再生)
(11)視覚対連合学習(遅延再認)
(12)言語対連合学習(遅延再生)
(13)視覚再生(遅延)
言語、視覚、総合、注意集中、遅延インデックスの5つの指標
旧WMSに比べて実施時間が長く、被験者の負担も大きい。
リハビリテーションなどで使われる外部の記憶補助手段としては、ノート、チェックリスト、コンピュータ、カレンダー、アラーム時計、日記、計算機、ラベル、郵送による合図などが挙げられるが、これらを利用した訓練は実用的であり、異なった状況にも効果的に一般化できる。認知リハビリテーションでは健忘症患者に、残されているプライミングや手続き的学習に焦点を当て、領域特異的知識(コンピュータ操作のコマンド、語彙、手続き)を習得し保持することを通じて、日常生活の課題に直接利用する訓練を行うこともある。
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