6月22日
前回
文化・社会・コミュニケーションを学習プロセスの中で要因の一つとしてではなく、本質的なものとして考える。
・社会的分散認知
チームの中での動きやスキーマがどう変化していくか。
社会を一つの経験システムと考え、一つのパーツとして人間を見る。認知的アプローチ(脳の中にパーツがある)という考え方と、ある部分で考え方を共有。
EX.ナビゲーション研究、航空管制官、舞台監督のようなチームワークの仕事。
熟達の度合いをグラデーションさせておくことによって、システム全体の強度が上がる。
官僚システム……(入力と出力しか分からず、中で何が起っているか外部から分からないシステム。うまくいっている時は非常に強固に働くが、不都合があった場合、一つのユニット事に閉じているのでなかなか変わらない)
・スキャフォールディング
社会的分散認知の中で、周囲の大人に支えられながら成長していくプロセスの研究。システム全体よりも、一対一対応の関係に注目する。有能な他者と学習者の関係。
最近は、スキャフォールディングははやらない。
→学習を何とかできるようにすることが目的で、中身をあまり問題にしていない。学校システムをいかに効率的にするかのように、社会のドミナントな考え方を追認する形になるから、学習の中身に関しては無頓着→行為の多段階形成理論(ソヴィエト)
・エスノメソドロジー
一対一対応の対面状況におけるコミュニケーションではなく、社会状況や権力的構造の中で展開されている問題をきちんと見ていく。
できるようになったとは、どうやって生まれてきたのか。
→社会的現実感が、どうやって生まれてきたのか。学習しているとみなしている時、何をしているのか。
EX.ジェンダー
他の基準(身長など)で男女を分類してもいいのに、なぜ生殖器がらみの差異が本質的なのかは説明できない。
→後づけ的にそれが本質的だと思い込むような仕組みが作動していて、本質的であることを疑わせないような知覚のシステムを人間は持っている。つまり、作り上げる知覚の問題。
→このような状況をあたり前とするような言語的ディスプレイは何なのか。
→厳密には、学習という概念が出てこない(循環を扱う)
言語的行為が変わるのであて、学習者が変化しているわけではないから。
様々な社会的差異が、我々自身の身振りや言葉づかいから作り出されていて、それをリアリティあるものとして感じてしまうので、あたかもそれが存在するかのように感じるかによって、我々自身が其れに合わせていくという無限の循環があるということを解明していく。
・LPP(Legitimate Peripheral Participation:正統的周辺参加)
一次的に現れてくるコミュニケーションに注目する理論→スキャフォールディング・エスノメソドロジー
それよりももう少し文脈を広げて、社会構造の関係性やコミュニケーションを分析する理論――ピエール・ブルデューらのpratic
theory
Pratic Theory――人間同士のインターラクションは、社会構造に制約されている。
※スキャフォールディングでは、社会構造は気に留めない。エスノメソドロジーは、会話によって作られるものと考えるから、社会の実在性はないと考える。
ブルデューの視点
行為者は、一方では構造に縛られているが、一方では構造を成立させる担い手であることから、「構造化されると同時に構造化する構造としての身体」としての人間
ある社会システムの中に埋め込まれたコミュニケーションの中で、行為する人間を見る。その行為者の認識は、思い込むことによって、ある意味でシステムの成立に寄与しながら、システムによって認識が作られている。
→LPPのアプローチ
Laveは、既存のシステムの中で、いかに有利な環境を作っていく。システム自体は比較的長く保持される。
Engstormは、よくないシステム自体を変えていく。
ヴィゴツキーは、ここのものと社会構造の立体感
J.Lave『Cognition in Practice』1988.翻訳『日常生活の中の計算行動』新曜社
認知主義的ではないアプローチを素描していく。
認知的アプローチを取る人の中にも文化の重要性を主張する人もいるが、その文化の取り扱いは、情報のプールとして正しい知識のデータベースがある(プロダクションがある)という発想は変わっていない。
データとしての文化からは、
→最も効率よく文化を伝達しているのが、学校という発想が出てくる。
→日常生活は、幾分システマティックではなく、学校は、学びの場として一段上にある、より優れた学習システムということになる。
→しかし、学校で学ぶことは、社会や文化の中で学ぶべきことの最良の部分が最良のやり方で伝達されているのか。そうではない。
学校で教えていることは、学校の中で重要なことであって、広い文化の世界につながっているわけではない。学校文化的なものを子供は学んでいるにすぎないのに、一番重要な学び方とされていて、日常的な学びを軽視するようなある種のイデオロギーを生産している。
しかし、文化人類学者として、様々な状況を見るにつけ、日常生活の中で生じている学びや振る舞いの方が、はるかにソフィスティケートされている場合が少なくなく、現実的に使える知識が生産されている。
→日常自体がすでに学習の場であって、その極めて特殊な場合として、学校があるとした方がリアリティがある。
→ある種の知識と自分や他者との関係性を作っていくことが、学習である。
EX1.計算場面
日常的に、数学などの記号操作として計算しているわけではなく、買い物場面では、うまく予算内で収める「計算」をしている。学校生活ではあまり成績のよくない人でも、道具や社会的フォームに依存して高度な「計算」を行う。
→数とか変わっている視点で問いを立て直してみれば、学校的な計算の在り方だけで見るのは非常に狭く、リアリティがない見方である。
EX2.ダイエット・マスの研究
1/3にわるとかの計算を、記号操作をしているわけではなく、物自体でやる。わざわざ500gのチーズを500/3で計算せず、かたまりに分けることで計算している。
→知的であることとは、いかに自分と世界を関係づけて、望ましい方向にしていくか。
自分の行為と共に世界が変化して、自分の行為に跳ね返ってくる――同一説
学習――うまく世界と関わっていくことができるプロセス。
道具や環境のネットワークの中で、スムーズな位置を占めることで、歴史的な社会的実践の現場の中に参加participationしていくプロセス。
→日常生活自体が学習であって、実践としての学習
※LPPを、教育の現場で、学習テクニックとして使おう
John, C, D, Brown……認知的徒弟制Cognitive Apprentice
日常的なものをうまく使って、うまく学習させる(Laveの場合は、日常生活そのものが学習)
・リベリアの仕立て屋のフィールドワーク
見習いから一人前の職人になっていくプロセスが、どのように展開していっているか。
・一定の時間内に技能のある職人に育つ←ある種の学習環境として成立している。
・やり方をほとんど教えていない←教授学習場面が存在していない
→仕事場自体が、すでに学習の場
EX.新米……アイロンかけ、ボタンつけ
↓
縫製
↓
型紙あわせや裁断……一人前
ちょうど服の生産工程の逆で、仕事の工程自体に学習の経緯がすべて入っている。
学習は、基本的には、構造化された実践のシステムがあり、その実践のシステムの中である役割をになって活動する(実践の構造に支えられて実践に参加する)ことが学習の構造で、教授学習場面はその特殊例。
↓学習を実践共同体への参加としてみることを一般理論として提案(1990)
正統的周辺参加論
ある具体的な実践の場に新米として参加し、その中で徐々に周囲との関係性を構築し、一人前になっていくプロセス。従来、学習とされていなかったことも学習に含む。
学習は、できなかったことが何かできるようになるということではなく、実践共同体との関わり方が変化していくこと(参加形態の変化)――現象としての学習
・周辺(peripheral participation)から十全(full
participation)へ
学習の一般的経路
なくてはならない役割だが、それほど重要でもないし失敗しても響かない(周辺)
↓
実践のあり方の本質的な部分への参加形態の変化(十全)
十全――その人なりの深い関わり方
その活動に正式なメンバーとして相互に認め合う形で働いていて(正統的)、周辺から十全へ向かうこと。
・参加とは――全人格(whole person)の参加
・技能の変化
・社会的関係(参加の形態の変化)
・役割
・権力(どういう学習をさせるかや評価に、必ず他者が介在する)
・アイデンティティ
trajectoryの変化をどういったものかと見るかには、上記のものを考えなければならない
社会的な多様な側面で、同時に変化していく←これまでは、知識、技能の獲得としてしか見なかった
↓
現実のなかのtotality、学習のフィールドワークという方法論の必要性
理論的な背景
・マルクス
・ブルデューのプラチック・ハビトゥス概念
知覚の好みが、社会的地位を如実に反映していて、身体構造にしみついている
非参加のアイデンティティ(identity
of non-participation)
知識や技能の獲得をしているのに、それが喜びや参加感につながらない。やればあるほどつまらなくなる(EX.受験勉強。組織における総会屋担当)
次回:一つのコミュニティーにしか参加していく形態になっていないという、LPPの問題点に対する批判