9月21日

前期の議論

心理学の研究の積み重ねとは、それまでのものに対して、どういう意味を持つのか、何が足りないから、あるアプローチを付け加えるのかの議論の流れが分かっていなければならない。

 行動主義への批判から、認知主義の誕生
あらゆる人間の営みを、条件反射としてみる――行動主義
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あらゆる人間の営みを、知識の問題と考える――認知主義
 知識は、何らかの記号的な形で、明示的に記述可能で、哲学の暗黙知(記述できないが存在する知識)は、存在しないと考える。知識をどう表現するかは、例えばプロダクションシステムによる。
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1980年代、コネクショニズム(神経ネットワークのシュミレーション)

 学習のtransferを考えた場合、大体うまくいかないのはなぜか
知識は利用可能性の高い状態で持っていなければならない(特定の状態でしか使えないのでは、条件反射的)
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認知心理学では、客観的実在としての外界を想定している。問題解決の経路からは、必ずある種の適応性をもった一つの答えが生成されてくる。つまり学習とは、正解や正解を導き出す方法を身につけることであるという発想。
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J.Brunerの批判
 外界に、正解の根拠となるような世界が存在し、それに基づいて正解を導き出す発想が、現実的な人間の問題を扱うときにできるのか。
 人間は、現実問題としての多様性の問題や文化的な多元性を考えると、自分なりの答えを生成するものであり、それは認知心理学では捉えられていない。
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Brunerは、環境との関わりの中で意味を作っていくことよりも、他者との関係の中で、意味を共同的に作っていくこと(ネゴシエーション)に力点をおいた。
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方法論が変化
 実験 → 観察
学習を情報のプールや生体としての環境世界から情報を身につけてくるプロセスではなく、人々が他者と関わりながら世界を意味付けていくプロセスとしてとらえる。
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Lave&Wenger
 人々が日常生活の中に関わっていくプロセスとしての学習。
正統的(仲間として互いに承認しあう)かつ周辺的(重要度の低いものから関わっていく)にある実践共同体に参加していく(日常的な社会的実践を含む)。その参加形態が変化していく。
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知識や技能の変化と同時に、実践共同体内部での社会的関係の変化があり、この不可分のプロセスを繰り返して、その中でアイデンティティの確立が起る。
→LPPの意義の一つとして、教育がうまくいかない事態を生徒の個性や教師の技能の問題ではなく、複雑なものごとの関わり合いの中で、あるアイデンティティを子供が獲得するプロセスとして、学習困難をとらえなおすことができるため、学習研究に大きな影響を与えた。

 LPPの問題点

やはり文化の間の移動の問題をとらえられない。
→社会的実践の場が決定されてから学習が起るという発想であるから、既存の実践共同体への参加を前提とすることによって、実践共同体との兼ね合いでしか個人をとらえられず、所属する実践共同体を変わった瞬間、白紙状態に一様に戻され、また個人の均質化が起ってその人個有のあり方がとらえられず、やはりそれではリアリティがない。また、transferもはじめから検討できない。
 Wengerのように、実践共同体自体のネットワークの中心部にいる人間として記述しようとしても、やはりある種の個の均質化が起る。
 また、そのあり方で個をとらえようとしても、実際に折り合いをつけているのは個人ということになって、結局は個人が学習や適応を行っていることになるから、LPPの原則と反する。
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エングストロームの拡張による学習
 基本発想はBrunerと同じだが、展開はマルクス主義の影響を受けている。レオンチェフの活動理論の展開から。

 活動理論のポイント

・媒介……人間は独自に行為しているのではなく、何かの道具と自分を関係づけながら行為している。また道具は、歴史的に作り上げられたものであるため、本質的に人間の行為は歴史的であり社会的である。行為や認識は、言語によるフィルターや内言に深く依存している。

→レオンチェフは、人間はある能動性をもって世界と関わっており(対象的活動)、それをより現実的にうまく働かせるために、記号があるとした(もともとのヴィゴツキーは、どうして人間は能動的に世界と関わるかを問題にして、それは記号による媒介があるからであると考えた)
 →レオンチェフは、個人のあり方を研究。
  エングストロームは、個々人の活動は、集団が先にあるからであると考えた。個々人の活動の前に、分業の中での位置づけがある。分析単位として、個々人ではなく共同作業そのもののダイナミズム、共同的活動そのものを設定した。

 学習とは、実践行動の動的な把握、つまり自分たちがいま何をやっているかを理解することであり(認知心理学にしろLPPにしろ、いままで持っていなかった知識を獲得することが学習であるとする)、システムを変えることと活動が変化することは切り離すことができない。

→やはりある活動があって、個人がいるという構造のため、文化的白紙の問題は解決されていない。
 →実践共同体のメンバー以上の存在に個人はなれないため、移動の問題をとらえることは、必然的に困難になる。

 

後期:積極的に理論構築(高木自身がNHKブックスに書くことを提示)
    ヴィゴツキーの話をとらえなおす

 

次回:移動と学習とヴィゴツキー