9月28日
参考文献
茂呂雄二『実践のエスノグラフィ』金子書房
我々の生活自体が、基本的なところで、例えば職場、家庭なども前提となっていて、重層的、多元的な生活がリアルになってきた。
しかし、従来の心理学、特に狭い共同体や一部の階層を原理的に対象としている心理学では、我々のライフスタイル自体をまったくとらえられない。
そして、移動の構造が最も端的に表れるのは学校である。つまり、生徒は学校に入学し、いずれは卒業する(移動する)場であって、システムとしての学校は、移動社会としての例としてとらえられる。また、Wengerも多重成員性として指摘したように、人間は多くのコミュニティーに同時に所属しているが、それを個人の問題に帰結させてしまうと、自律的な主体の概念自体が疑われている現在では、批判の対象になっている。
つまり我々は、世界と密接に関連しながら自己を構築していくというアイディアの一方で、そうした関係構築はある種の主体性を持って活動しているという事態をとらえるであろうということが問題になる。
社会との関わり合いの中で生活する中で、統一した主体として成立するプロセスを考える上で、
・我々の社会のリアリティは、諸活動の上に成り立っている(多元的世界)
・はじめから自立した主体を立てることはできない(発生のプロセスはどうなっているのか)
今回の議論
我々は、普段諸活動のシステムの中で、移動を意識しないのはなぜか。
Learning Disability児アダムの例
LD:脳の微細な障害によって、知能全体ではなく、特定の能力が低下する。
料理クラブ、教室、家庭でのアダムは、それぞれあり方が異なる。
教室のあり方になった途端、LD児としてのアダムがクローズアップされてくる。
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アダムと周囲の人々のコミュニケーションの構造が、障害を現したり隠したりしている。
→アダムが学習障害を持っているというよりも、学習障害ということを語るコミュニケーションがアダムをとらえた。
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学習や発達は、ある能力や技能が個人に備わることであると見られがちだが、能力が個人に備わっているもののように見られるような場と個人の関係性の問題の視点をもたなければ、移動の問題は、学習転移論のような見方に終始して、なかなかとらえられない。
キャツデン、創造的抵抗creative
resistance
個人が二つのコミュニティの狭間に意識している事例
黒人ザンとジュディの会話
アカデミックな白人世界でも通用する言い回しで、なおかつ黒人コミュニティの自分にもしっくりくる言葉を捜していくプロセス。
学習転移論に立つと、移動の問題は、そもそも問題として現れてこない。
学習転移論では、移動すると、得た知識がうまく使えなくなることまでは同じに見る。
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両方でうまく使えるような、つまり移動や活動が問題とならないような、ある程度一般的な知識を身につけさせれば、移動の問題は消失すると考える。
→個々の活動のあり方に左右されないような、共通項を見出そうとする。
→その人たちの、歴史的に固有なあり方が見えなくなる。
→移動の問題は、転移可能な知識を身につけていないだけである(個人の要因)
→しかし、現実的な学校システムでは、移動を再生産するシステムでありながら、文化的な移動を無効化するところがあり、社会構造的な違いの面などに根深い問題が存在する。
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LPPの学習転移論への批判
LPPでは、学習論に、移動の問題を体系的に取り入れている。学習とは、周辺から中心部へ、共同体内部で位置づけを変えることであり、移動すること自体が学習であると明確に打ち出した。
ある実践共同体が、どうして学習を可能にしているか(人類学者Lave)
→実践共同体の中の学習者という理論的枠組みであるから、どんな人が入ってきても新参者であって、そのバックグラウンドにあるような移動の歴史を問うことができない(文化的白紙)。ある共同体の存在が前提となっているメンバー、社会的主体としてしか扱えない。
→LPPの議論自体が、向かっている方向において、扱いたい問題に使えない。
80年代以降の、ヴィゴツキーの再評価(ヴィゴツキー・ルネッサンス)は、参加論として読まれている。
・記号による媒介
・精神間機能から精神内機能へ
次回:Jim Wertschの議論、参加論としてのヴィゴツキー