11月16日

 前回までの議論

 ヴィゴツキーは、参加論として読まれることが多いが、そう読んでもこの場合はあまり意味がない。
→参加論的な見方では、実践共同体の中にコミュニケーションシステムがあって、そこに関わることでコミュニケーションツールである言葉の使い方を習得し、さらに自分自身をコントロールするツールとしてつかうことによって、その共同体のメンバーになっていく。
 →参加論は、学習発達の研究で重要な位置を占めるが、移動のような問題を考えるときには、参加論だけでは厳しい。

 学習や発達がどのような場で起きていて、場と発達主体の関係をエスノグラフィックにとらえることに有効である参加論
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現時点で進歩している学問の先駆的存在としてヴィゴツキーをとらえることは、時間逆行的で、オリジナルの理論が持っていたポテンシャルが見えなくなる可能性がある。
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「思考と言語」の可能性の再検討
 参加論的側面があるが、参加ではいい尽くせないヴィゴツキー独特の在り方は、我々の考えている問題に示唆的ではないか。

接触……二者が出会うことで、うまくいったりうまくいかなかったりするインターラクションの構造

「思考と言語」を取り上げる意味

1930年ごろを境にヴィゴツキーは媒介物に関して、理論的立場を大きく変える。

媒介とは
・前期:条件刺激
自分で自分に条件刺激を与えることによって、自分をコントロールする。自分の行動を変える原因として、自分でその原因を作り出す。原因としての媒介物があり、結果としての自分の行為が生まれると考える。媒介と本人の関係を因果的にとらえた。
・1930年代くらい:
媒介物は、何かあれば必然的にこうなるというのではなく、主体の解釈作用があって意味づいてくることも含めて、何らかの形で意味あるものとしてあらわれてくる。コントロールを考えないで、例えば、言語と思考の関係自体がどうなっているかを意味という概念で語ろうとした。

つまり、媒介物を通した主体や行為の関係はさまざまなバリエーションがあって、一つではない。人間と対象と行為の間に生まれている、ある種の関係性のようなものを意味と呼び、その関係性自体がネットワーク的な構造性をもっている。

→関係性を記述するアプローチに変わった。
 言葉と、人間のもっている精神機能の間に複雑なネットワークができていて、それをうまく記述しなければならない。

「思考と言語」の課題
→意識=意味の解明
 →意味は話すことと考えることの関係の中で成立してくる(関係のネットワークの中で記述されてくる)
  →発話と思考の関係を実際どのような関係として記述していくのか(方法論のレベルでどうするのか)(媒介されたものとしていることは原理のレベル)

1章   方法論
2〜4章 原理
5〜7章 原理に従って、1章で設定した方法論を展開して、人間の様々な精神活動を記述で切るような概念系を記述していった。移動と学習で重要なのは、方法論のレベル。

多くの場合、ヴィゴツキーの読みでは、原理の部分(媒介された行為、精神間から精神内へ、言葉が意識を担う)だけを使って、そこから先は当てはめになる。精神間から精神内へといっても、人間の発達は一つではないから、さまざまなバリエーションを取りうるし、そのバリエーションを記述できるような概念の関係などの理論的ツールをたてないと、原理に戻るばかりで意味がない。つまり、原理内部でいかに複雑な事が起こっているかを記述できなければならない。

※method(方法)−どうやって理論をドライブさせてくるか。(認知心理学だと計算論)
 technique(技法)−理論を動かしたとして、データや素材をどうもってくるか。(実験、観察、シミュレーションなど)

1章冒頭

 思考と言語……考えることと話すことの二つの精神機能の活動

 意識活動が考えることと話すことの関係によって成立していて、特に、他のさまざまな意識活動に関係しているものの中で、この二つの関係性を解き明かすことが、さまざまな意識活動をとらえる上で重要である。
 この考えることと話すことの関係の中心的要素は、思想(思い浮かべたこと、idea、観念)と単語の関係性の問題である。
 考えることと話すことの関係に結びつく、他のすべての問題は、この第一の問題、つまり、ideaと単語の関係に論理的に従属する副次的問題である。
 単語レベルでの考えることと話すことの関係がわからない以上は、それ以上この大きな問題を解くことができない。

ヴィゴツキーはマルクスに多大な影響を受けており、一章冒頭は、マルクスの資本論の冒頭と非常に良く似ている。

 資本論
革命を起こすためには、資本主義社会がどのような原理で動いていて、システムを解明しなければならないため、システムを詳細に分析している。
 →資本論はヴィゴツキーにとって、複雑で変化するシステムを単純化してとめて記述するのではなく、ダイナミズム自体を記述できるようなやり方の良い手本であった。
  →この複雑なシステムをとらえるやり方が、人間の精神をとらえようとする際にもつかえるのではないか。

 資本論冒頭

資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は『巨大なる商品集成』として現れ、個々の商品がその富の原基形態として現れる。われわれの研究は、だから、商品の分析を以って始まる。

 資本主義社会において、富は商品としてあらわれる。資本主義社会の原理的特徴は、あらゆる事柄が、商品性をおびてあらわれてくることが特徴であって、商品のかたまりが、資本主義社会の正体である。

 ヴィゴツキー……意識はことごとく、考えること話すことの関係性でできている。

 次に大枠を捉えると、
 マルクス……商品世界
 ヴィゴツキー……考えることと話すことが関係する意識の世界

 もっとも小さな単位をとらえる
 マルクス……原基形態−商品
 ヴィゴツキー……単語

 基本単位をどこに認めるかと、分析をどこからはじめるかは別問題だが、(LPPは参加にあるとしているが、分析は社会システム)両者とも、「だから〜」とつなげている。
マルクス……商品の分析から始まる。
ヴィゴツキー……単語のレベルの問題に論理的に従属する。
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今後の論理的展開もマルクスにも似ているのではないか。

なぜ単位を小さいものからはじめるのか。
ヴィゴツキーのマルクスの読み

交換価値と使用価値の二重構造からできている商品をブルジョア社会の「細胞」とみる。
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発達したものを大まかにとらえる方がやりやすい。しかし
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最も小さな単位の中に、システムの作動原理自体が含まれいているということを、マルクスは読み取ったため、小さなものからより複雑なものを読み取る分析的アプローチを取った。
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心理学においても同様で、例えば生物学において、身体を理解するには身体を形成する細胞のメカニズムの解明が必要であって、細胞が増殖していって、一つのtotalityがあらわれてくるメカニズムを明らかにする必要がある。だからこそ、トータルから遠い細胞を研究することが、トータルを解き明かすことになるのである。
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一つの単位を規定している基本的なメカニズムから、より複雑なシステムが理論の中で構成できる。その構成されたものは、全体像と同じに細かいところもわかるという方法論。
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ヴィゴツキー……考えることと話すことによって構成される、意識の世界。
→最小単位は単語で、単語は考えることと話すことの関係性によって成立している。
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では、考えることと話すことの関係性を単語のレベルでどうとらえるのか。
→ヴィゴツキーは、因果的なものの捉え方、要素への分解を批判
例えば、水を理解するときに、水を分解して、水素と酸素をみても、水の特質はわからず、要素に分解することによって、全体の特質を消し去ってしまう。
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結びあい方自体に特質が生まれるのであって、全体の特質は要素に還元できない。
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この要素への分解を一般的にやっている心理学への批判
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では要素に分解しないのなら、どうするのか。
→分析単位(要素ではなく、単位)
 水そのものの分析運動を分析することが、適切な単位であって、化学式そのものでは分からない。
 ある複雑な挙動を理解するために最も適した活動のレベルが単位
 →ヴィゴツキーは、人間の意識が全部の人間についてどのような特性をもっているのかで終わるのではなく(要素の結合体として、心をとらえるのではなく)、個々人が、どのような状態にあって、具体的にどう動いているのかの概念系や道具立てを作り上げようとした。
  →人間の具体性を記述しようとするならば、単位のレベルでなければならない。
   →具体的、個別的なものと一貫した視点で記述できるような道具立てを作ろうとした。

・一般的にルール化して命題化できるような知識を生産する。
・一貫した視点で、複雑なものについて記述、説明、介入するのか。
→どれを取るかで、どのような方向に、科学的思考がいくのかが変わってくる。シンプルに抽象化するのか、具体的に現実を記述するのか。

 では、分析単位とは具体的に何か。
→単語の意味
 →話すこと(音声を発する)と考えること(世界を区分する)ことが結び合ったところに言葉で表示されるような意味が発生する(通常考えられているような観念に意味が発生するのではなく、考えるプロセスと話すプロセスが出会って、結び合って一つの単位化したものが、単語であって、意味である)
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 意味のネットワーク

 

次回:もっと具体的な話