12月7日
前回までの議論
単純な参加論では移動と学習の問題がとらえにくい
→ではどうするのかについて
参加論ではないヴィゴツキーの読み方
・「思考と言語」の再検討
ヴィゴツキーの分析単位とは何か
いままでは、人間と記号を一つの単位としてみるというやり方で、分析単位というよりも観察単位(どのレベルでものを見るかの問題)として分析単位をとらえていた。しかし、何を見るかはむしろヴィゴツキーには決まっていて、主体、他者、関係を取り持つ媒介物(道具や記号)を視野に入れて説明されなければ、個体の意識的な各文化に歴史的に固有な発達のあり方は見えてこない。
→ではその関係や、関係の中で構築されてきた個人の精神をどうやってとらえればいいのか(ここで始めて分析単位の話が出てくる)
→三角形そのものの分析ではなく、関係そのものをどうとらえてどう考えるのか。
・「思考と言語」における単位の複雑化
そのような単位を「思考と言語」の5,6,7章で、一個の単位から複数の語の意味のネットワークになり、さらにそのネットワーク同士の関係が構成される。そのネットワークは、発話の行為の中で構造的になるという、三段階の展開をした。
Forsytheとワロンの共通性
フォーサイス……身体と身体を関係づけるという個的な作業。自分の体で外の環境を定義づける閉じた環境。
→幾何学的に作られている姿勢が共有されていれば、どう作っているかを外から読むことができる。
→他者に開かれているからではなく、相手に読み取り可能だからコンタクトできる(個的に閉じることによって、他者との関係が作られている)
→アイデンティティと他者に対して開かれている関係性が、別の形で交差している。
アンリ・ワロン……ピアジェは自分の目的のために環境と関わるfunctionalな関係で記述しようとした(同化と調節など)。それに対して、例えば何かを持って動かすためには、同時に自分の体の各パーツを緊張させることが必要で、持つということはfunctionalではなくて身体の緊張であると考えた。
→単に動いているときとかたまっているのではなく、動きの中にも自分の身体を形作っている側面があり、情動についても同様に考えた。
→他者に見られうる身体を作る(身体の表情化)
→幼児は直接自分が動くのではなく、他者に読み取らせることで他者との関係を作っていく。
→社会的レベルでの意味はそこから発生している(互いの身体を表情として読みあうことで精神発達していく)
→現実的には、functionalな目的を持って活動しているというよりもむしろ、プランを綿密に立てることができなくても柔軟に対応することが自然であって、それは決められた身体を他者に読み取らせることで複雑なことが起きる(双発)
他者の不器用さ
VygotskyとForsytheは完全にイコールなのか → もちろん×
→フォーサイス的にもう一人いる他者との関係の中で接触していくうちに複雑なシステムが双発してくるが、ルールとの関係がスムーズにできてくる。
→群れとして、純粋で完璧な変形と接触を目指す芸術
ダンスによる個の吸収
→個体は群れを構成することをゆるす構成要素の一つにすぎない。動き自体に目がいき、個があまり見えてこない。
→システムのみが残る。
Vygotsky
現実世界における他者との理想化した形での接触は現実的に困難であることが、むしろ当然である。
→知覚可能なものと、他者と接触するものには必ずギャップがあり、うまく世界と交われない部分に、個的なものがかいまみえる(7章の議論)
Inappropriate or inappropriated others
inappropriate(受け入れられない)でありappropriate(受け入れる)である。
そもそも、個と他者が完全な形では接触できず、世界の中でぎくしゃくしながらそこそこうまくインターラクションし、うまくいかない部分にこそ個的なものが見えてくる。
→最近接発達領域に続く。
子供をとらえようとしたら、子供が既存の決まりにどれくらいフィットしているところを見てもだめで、むしろ一人でとけそうにない課題を誰かとさせて、ぎくしゃくしている(inappropriate)な姿を見ることが重要である。
→うまくいかないところから発達が生まれてくる。
接触の困難さへの接近
うまくインターラクションしていない状況を記述できる道具立てをすることで、発達的な問題をとらえる。
事例
・教えない教室
・非参加のアイデンティティ
・周辺性と周縁性
・社会的カテゴリーと個人史
・帰国児童と学校の関係作り
・外国人生徒への教師の眼差し
事例1 参加論的学習事例(うまくいった例)
荒れている学校における教えない教室(ヒーリーの実践)
授業が成立せず、教科書の棚上げと作り直し
何でもいいから、やりたいことを出させる
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ふざけて出した平行線はクールだ≠フようなことを教師が受け入れることで、まじめに議論せざるを得ない状況に。
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なぜクールか
↓
数学的な議論に発展し、その中で、実践共同体の中でのメンバーシップのあり方が変わってきた。
→既存の教授-学習関係の解体
つまり、いままで使えていたコミュニケーションツールが使えなくなった。
↓
媒介の変化と新しい媒介の模索が起る。
↓
コミュニケーションが変化する中で、関係構造が変化する。いままでと違うやり方で、クラスの中のコミュニケーションを取っていく。
↓
役割が変化していくことで、新たなアイデンティティの構築が起る。
↓
コミュニティの中のあり方が、結果的に数学的に意味のある方向に実践共同体を導いたため、内部の変化が外部の数学的な共同体に接続していった。
事例2 参加論的学習事例(うまくいっていない例)
非参加のアイデンディディ(Wengerの研究)
保険請求処理オフィスにおける学習
両者の視野の分断状態
・処理システムの構築者の視野
・処理スタッフの視野
→両者の視野が異なり、何を、どうしてやっているかが見えてこない。
システム構築者は、そのシステムについての知識や何を意味するかが分かるが、処理スタッフは、そのシステムについてのノウハウは持っていても、何を意味するかがわからない。
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正統的に実践共同体に参加していけばいくほど、手順の意味が見えない中で技術のみを習得していく。やればやるほど無意味感がつのる。
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習熟が実践共同体との「距離」を生産する。
参加が深まれば深まるほど、参加感がなくなっていく。
→自分たちの間だけで通用する処理の意味付けを作る。隙間共同体の構築。
参考:アメリカの食肉業における学習
参加論において、実践共同体と学習者のぎくしゃくした関係というものは、既存の実践共同体からしか派生してこない。
→ぎくしゃくしているのは、実践共同体と隙間共同体であって、個々人の個的なあり方は消えて、まとまったカテゴリーの中でしか記述できない。
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事例3 周辺性と周縁性
次回:事例の検討