12月14日

 前回までの議論

他者の不器用さ

・Forsythe
 身体のパーツを使ってインターラクションすることにより、他者との接触可能性が生まれている。しかも振り付けはなく、相手との関わり合いや身体のルールのみが決まっている(媒介物を共有している)ことから、あらかじめ定義されたプランによって、複雑な動きが作られる。

 認知科学や振り付けのあるダンス  振り付けのないフォーサイスのダンス

 完璧な変形と接触を目指す芸術であるから、ダンサーがダンスの側に(全体の動きに)吸収され、ダンスによる個の吸収が起ってくる。
→完璧に動くため、ダンサー自体が見えない。
 →個的でありながら、他と関わるという心理学的問題によく使うことができるが、極まってくると個が見えなくなる。
 ※LPPも同様に、最終的には、社会にきれいな形ではまることで個が消失する。

・Vygotsky
 実際の生活の中に、完璧にインターラクションして、ものごとをうまくいかせることは極めてまれで、逆にそこそこうまくいって、そこそこぎくしゃくしている。不適切であったり失敗したりする状況を見ていくことで、発達可能性を含めた、いま動きつつある状況が見えるのではないか(その人の最近接発達領域を見ること)。
 ※試行錯誤していることとは異なる。
  問題解決における試行錯誤は、正解に向かってあれこれやってみる過程だが、現実的には正解が一つ決まっていることは少なく、むしろ最適解は自分で作り出すしかない。

 また、inappropriateな他者を見なければならない。
 波のメタファーでは、完全に水と空気がコーディネーションしているから波ができるという意味であることにおいてまだ不十分で、波になろうとして互いに動いてぎくしゃくしているような関係性をどう考えたらいいのかまでいかなければ、リアルな人間の発達心理学のための倍か異論にならない(意味のネットワークの問題、7章)
 7章では、ソーシャルな他者との関係性の問題と、動機や情動などの個体のダイナミズムの問題を、個人主義的な心理学にならないで理論の中で論じていこうと、ヴィゴツキーは試みていた(完成する前に死んだ)。

事例3 周辺性と周縁性

Hodges(1998) Human developmentかMind Culture of Activityに掲載されている論文
 実践共同体にはまれない状況を、はまれないもの同士の共同体や、発達を共同体への参加という、別の問題にすりかえられていることを批判。

 幼児教育への違和感

幼児教育は、女性の優しさ的イメージが基本となって構成されていて、受講者もその概念にのっかっている。
→社会が、幼児教育に伝統的に要求しているものがベースとなっている。
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違和感の構造はどこから来るのか
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LPPの導入
 Hodges自身は、幼児教育をしたいので、その実践共同体に正統的かつ周辺的に参加する必要がある。
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周辺性……dominantな実践共同体で求められる習熟との距離感で定義される。つまり、周辺的な参加者としてのHodges。
→従来のLPPでは、参加への抵抗感をとらえられない。
 Lave&Wengerは、知識や技術の獲得過程しかとらえていない。
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 周辺性Periferalityに対する周縁性Marginality
・個人史が、実践共同体のシステムを受け入れない部分――周縁性。その人の個人に深く関わっている問題
・社会空間における位置どりの問題――周辺性

システムを考えるときには、Laveの考えだけではとらえられず、社会空間としてのシステムとそこにくる個人史をとらえなければならず、周縁性は、その人のパーソナルヒストリーに深く関わっているのではないか。
→個人史のシステムと社会システムの間のコンフリクトから、Hodgesの感じたような違和感が生まれたのではないかと暗示
 →学習に、2つの局面(周辺性と周縁性)があることを論述した。
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 では、ぎくしゃくしているところ(最近接発達領域)から、次のステップに進むにはどうするのか
→システム同士の出会いの偶発性を考慮に入れなければならない。
 →人間の発達は、ピアジェでは決まった経路を取ることを想定していたが、ヴィゴツキーは、撹乱してみなければ次にどうなるかは分からないと、最近接発達領域の概念で考えた。
※LPPでは、出会いの偶発性はあり得ない(実践共同体内での必然的な出会い)
 Hodgesでは、キャリアと個人の偶発的なローカルな出会い(フォーサイスの、二人のダンサーが出会ったときにダンスとしてはじめて動きはじめるのと同じ)
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  事例4 

事例4 バハマからのレポート(ジューン・ジョーダン)

 普段、フェミニストとして、黒人であることと女性であることで生じる社会との違和感や関係について問題意識を持ち、それを大学でも講義している。
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バハマにいった時、自分と現地女性との「つながり」がまったくないことに気づく。
→サマルタンのような問題を考える場合、人種・ジェンダー・宗教などというカテゴリーは、不確かで力がない。
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その中で、虐待された黒人女性に相談を受け、サポートのボランティアをしている白人女性を紹介する。
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虐待の渦中にある女性と、過去に虐待を受けたことのある女性の間に、個人史の接触による新たな空間的ネットワークの想像が生まれて来た
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そこのネットワークをどう記述するかが重要な問題(再境界化・戦略的創造性)

事例5 帰国児童と学校の関係作り

 学校になじめない帰国児童との関わり
ある帰国した生徒が、日本や学校になじめず、ヒステリックな状態にある。
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学校を遊歩する
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散歩をしているうちに、ペンキ塗りの発見。ペンキ塗りをしているうちに、他の生徒の興味をひいて、そこでファーストコンタクトが生まれた。
→学校システムと個人史の接触が、一見意味のないような状況で起った。
 →無駄に見える時間の中で、個人と個人史の接触可能性と、システムの接点が生まれてくる場合がある。
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新しい関係性の可能性の模索、アイデンティティ構築の可能性が生まれてくる。

 

最後に

 学習発達の問題を、文化間移動が当たり前の状況の中で、リアルな学習発達理論を考えなければならない。
 移動する個を、個として統一性を持たせつつも、他者との関係性の中で論じなければならず、その時には個人史同士が接触する局面を記述して、理論化しなければ、現実に学校場面で起きている学習発達の問題はとらえられない。それは、いままで見てきたアプローチの中には、ほとんど構想されていない。
 その様な問題として、コミュニティとは何かを、固定した共同体の中に個人が入ってくる形ではなく、この構造がどんどん複雑になっていったものとして、見かけ上の輪郭が見えてくるものとしてコミュニティをとらえなおしたときに、ではコミュニティとは何なのかという話が、別の視点でとらえようとするアプローチが、現れてくるのではないだろうか。