常識だからといって
誰もが出来るわけではない

 

 知り合いのMLで教えていただいた言葉です。ウィル・ロジャースという、アメリカのコメディアンの言葉だとか。

 わたしは、何事かがあったとしても、みんなそうなんだから、という答えは持っていません。そんなに個人を軽視してどうするのでしょうか。誰かが似たような状況にあったとしても、それが何かの足しになるわけではないのですから。

 それが、何か苦しいことであったならなおさらのことです。苦しみは、他の誰かと共有できるものではない。その背景となっていることも、求めているものも、すべて異なるものであることはごく当然のことでしょう(往々にして、それは共有できるものだという誤解が流布しているようですが)

 そして、わたしにとってもっとも不得手で、いつまでもつきまとってくるのは、まさに常識≠ニいう言葉でしょうか。

 自分ではよく分からないのですが、わたしはとても目立つタイプのようです。身についたものは変えようがないのですが、幾度となく注目の的となったりからかわれたりすると、さすがにねぇ。慣れているのと感情に波を立てるのが苦手なので、たいてい自己消化してしまいますが。(でも心当たりのある方は注意して下さい。唐突にマジギレしますから)

 それが常識≠ニか普通≠ニいう言葉で包んであることほど、わたしにとって苦しいものはありませんでした。普通じゃない、といわれて愉快なはずがありません。ありふれたものは必ずしもありふれたものではなく、希少であることの方がむしろありふれていることのはずなのに。自分の個性をネガティブにいわれるほど、情けないものは、少なくともわたしにはありません。本来、常識って、他人に合わせることではないでしょう?

 もちろん、社会性を否定しているわけではありません。もし、社会が壊れたからといって、自分の望む世界がくるわけではありません。

 ただ、その社会≠ゥらはみ出た人間は、どうすればいいのか、ということなのです。ある個人にとっての社会からはみ出ているように見えるある個人を、どうしてその人ははみ出ているとしか見ないのか、ということでしょうか。自分にとっての常識が、他人にとっても常識であると、どうして確信できるのか。わたしには、それが暴力にしか見えないのです。

 わたしは、ゲームの流れは読めるのですが、自分自身に運がないのでどうにもならないタイプでしょうか。まあ、器用貧乏なタイプなのですね。