自由・平等・友愛

 

 久しぶりに、ちょっと社会派でせめてみましょう。いわずもがなの、フランス革命の理想です。

 それほど詳しくはありませんが、まずはフランス革命の年代的変遷について追ってみましょう。

 1789年から99年にかけて、ブルボン王朝の失政、啓蒙思想の影響、第三身分の台頭、下層民衆の行動力の形成などによって起こった、フランスの市民革命。

 ブルボン王朝の失政をたて直すために召集された三部会が国民議会へと発展し、89年7月14日のバスチーユ牢獄襲撃事件を契機に、立憲君主制をとる91年憲法が成立。

 新しく成立した立法議会は共和派の進出がめだち、92年、共和派のジロンド派内閣はプロイセン、オーストリアの干渉に対し対外戦争に突入。九月立法議会にかわった国民公会は共和制を宣言し、93年、国王ルイ一六世オーギュストを処刑。

 六月事件でジロンド党を追放した、ダントン、マラー、ロベスピエールらが率いる山岳派の独裁による恐怖政治が布かれたが、94年のテルミドールの反動によりジャコバン党ロベスピエール派は崩壊。95年、総裁政府が組織されたが政局は安定せず、99年、ナポレオンの軍事独裁により革命は終わる。

 1848年の二月革命以後の第二共和政、1852年からの第二帝政、1871年からの第三共和政、第二次世界大戦後の第四共和政、1958年以降、シャルル・ドゴールによる第五共和政を経て現在に至る。

 古典的な市民革命として世界各国の政治、社会、精神生活に強い影響を与えたが、君主制をとる各国に危機感を与え、また激怒させた。ロシアのエカテリーナ二世は、「車屋に政治を任せるなんてとんでもない」といい、革命を非難。それまで自分自身が傾倒していた′[蒙思想を、弾圧しはじめる。

 「私は無実のうちに死んでいく。私の死が、フランスの繁栄に繋がるように」といって、ルイ十六世は処刑台に上り、我々は、断頭台という新しい公開処刑法を手に入れました。

 ボルテールは、「王は、王であることが罪である」といいました。

 君主制に対するアンチテーゼとして始まった近代民主主義であり、フランスはすぐに衆愚化と帝政化を繰り返していった、ということは、今後の政治制度の変遷がどうなるかを占う上で、非常に興味深い事実ではあります。

 ボルテール、ミル、ロベスピエール、あるいはエカテリーナやマリア・テレジアの、いったい何が・誰が正しいのか、などということは、ある意味において不良設定問題であるため、論の対象にはしません。

 さて、自由・平等・友愛というのは、革命当初からいわれた理想であり、実はこの三つの言葉の中に、十分な理論的な議論がつまっているということが、意外に知られていないことは、残念な事実のように思われます。

 自由といって、まずはじめに想起されるのは、自由主義です。一七・一八世紀、主に西欧の新興市民階級、つまりブルジョアジーによって主張された市民的・経済的自由、民主的諸制度を要求する思想・立場・運動を自由主義といい、広義には、個人の自由な発展を追求する一つの精神的態度を含めます。

 ロック、ルソー、ベンサム、ミルなどによって唱えられ、アメリカ、フランスの二大革命の原動力となり、特にイギリス、フランスなどでは宗教的・政治的・身分的束縛と圧迫を排除する原理として重んじられたことは、学校教育が妙に盛んな日本で育った方には、知識として馴染み深いものでしょう。

 そこから、特にジョン・スチュアート・ミルは「On Libearty」を著したわけですね。中村正直が「自由之理」として翻訳したわけですが、その著では、社会対個人の関係において自由が論じられています。

 近代的資本主義社会に於ける多数者の専制、多数決原理の少数者への圧迫という矛盾に注目しているという点で、「専制者としての民衆(ブルジョワジー)」に強烈な批判を加えています。

 社会からの圧迫をおさえて、個人の精神的、社会的自由を確立しようとし、さらに、自由平等との調和を追求し、人間の機械化・平均化に警戒をうながしているという点で、往々にして誤解されている「平等主義=均等主義」とは一線を隔すといえるでしょう。

 そこで、自由の際限ない暴走としての自由勝手をとめるために、「平等」の概念が導入されています。

 余談ですが、先ほどわたしは、誤まった平等主義=均等主義といいました。この誤りは、むしろ東洋圏においては、文化的に必然とも言えます。

 あまり聞いたことがないかもしれませんが、「平等平等」という言葉があります。「へらへいとう」と読むのですが、意味は、すべてが一様であるさま、いっしょくた、ということを指します。平等信仰ともいうべき状況は、ここからも読み取ることが出来ます。

 さて、均等主義でもない、かといってかって主義でもない平等を実現するためには、何が必要なのか・・・・・・そこで、友愛や博愛の概念が導入されます。すなわち、愛です。

 汝の隣人を愛せよ、これは、もちろん近所の人と仲良くしなさい、みたいな限定形ではありません。隣人とは、広い意味での世界、人類との友愛を示し、それにより、自由・平等・友愛がはじめて実現されるのである、としているわけです。深いですね。

 

 今回は、わたしとは一見あまり関係がなさそうな話題について、むしろ解説という姿勢で概説してみました。ただし、これは単なる政治論ではなく、わたし達が日常生活においての実現に向けて、大いに努力しうるであろう理念であると思われるのですよ。

 わたしは原則的な意味において、自由・平等・友愛を自己的に実現したいと思っているのですが、しかしなかなか難しい話です。頭で理解することも実は容易ではありませんでしたし、それを実際に行うことは、もっと難しいですね。

 断わっておきますが、行為されない理念は、存在しないことと同じです。いいかえれば、机上の空論であり、もっとラディカルにいえば、きれいごと、あるいは、かっこつけ、にすぎないのですから。

 

民主主義はけっして長く続かないという事を忘れてはいけない。

民主主義は、すぐに浪費を始め、疲弊し、自滅していく。自滅しなかった民主主義は、これまでに存在しなかった。

貴族制や君主制と比べて、民主主義はうぬぼれない、増長しない、利己的でない、野心的でない、強欲でないといってみてもむなしいことである。それは事実ではなく、歴史にそのような例はない。

このような感情は誰の心の中にもあるものであり、どんな政治体制の下でも存在するものであって、抑制されなければ、欺瞞、暴力、残虐といった同じ結果を産み出すものである。

ジョン・クインシー・アダムズ(合衆国第六代大統領)