良心の呵責というものは
やめようと思えばやめられる制度だ

 

 フリードリヒ・ニーチェの言葉です。おもしろいことを言う人も世の中にはいるんだな、とわたしは思った記憶があります。

 ニーチェアは強者の自律的道徳を説いて、それを具現化する超人という思想にたどり着いたわけです。彼にとって、民主主義的倫理は弱者の道徳であったので、ファシズムを一面で擁護することにもなったわけです。もちろん、いいとか悪いとかを言うつもりは毛頭ありません。

 ただ、少なくとも強者でなければ、弱者を援助したり手を差し伸べたりすることはできないので、民主主義というのは社会的・経済的格差をうまく覆い隠すような装置として働く一面を持っているとは思います。いや、話が脱線しました。

 わたしは性善説も性悪説もとっておらず、あくまで倫理観などはニュートラルに経験的に形成されるものだと思っているのですが、いかがなものでしょうか。ある意味で、倫理観が生得的にある、という方が、倫理的に問題があるとわたしは思います。

 つまり、悪徳遺伝子を社会的に排除する方向に向かざるを得ず、選民思想とほとんど同義になるでしょう。それでいいというならば、それはそれで構いません。生得的な倫理観よりも獲得性の倫理観の方が強力であるという証明になりますから。

 良心と倫理を厳密に区別してみますと、前者は人間の能力(先天性あるいは獲得性を問わず)、後者は人間関係や秩序を保持するための制度と言えます。ニーチェはその超人思想から、(キリスト教的)良心を制度≠ナあると拒絶したわけです。

 これは、非常にユニークな発想の仕方で、例えば経験主義的に言えば、良心は獲得性のものであるために、システムから生じてくるものであるとの演繹の仕方ができるでしょうが、ニーチェは経験主義からの演繹法をとっていません。

 その独自の思想からこの結論を導き出してきたわけです。すなわち、

良心の呵責というものは、やめようと思えばやめられる制度である

 そして、ニーチェの試みは、やがて実存主義の流れに沿って展開していったわけです。

 

 良心の呵責というものを、はたしてニーチェはやめたのでしょうか。

 わたしは、ある部分でやめました。やめざるを得ませんでした。

 そしてみなさんは、良心の呵責という制度を、もっていらっしゃるのでしょうか。