『自分で自分を助けて』
『他者を助けて』
『他者の救いの手もありがたく受ける』
今回の言葉は、『寿命まで生き抜きます同盟』の碧あおさんの日記から掲載許可をいただきました。ドクターがおっしゃったことだとか。
もう一度確認させていただけば、もちろん、彼女にとってのこの言葉と、わたしにとってのこの言葉は、生きてきた道筋が異なるからこそ異なるかもしれないことが必然です。他の誰とも、個人の経験は共有できないのですから。今回は、わたしがそう考えるようになった理由、でもあるかもしれません。
さて、その先生曰く、人間生きていく上で、『自分で自分を助けて』『他者を助けて』そして『他者の救いの手もありがたく受ける』ことが大事だそうです。
その3つの内、わたしに何ができるかといったら何もできないのですが、ありがたく受けるどころか3つ目はむしろ迷惑千万に感じる、というか信用できないものですから。
うん、まあそうです。人は邪魔するもんだと相場は決まっています。間違った認識といわれますが、実はわたしもそうではないかなとも思うのですが、少なくとも人をあてにして馬鹿を見たことしかないですし、それで困るのは自分だということは、すでに学習しました。
まあそのような感じで、わたしは、他者は差し伸べる手と同じ手で、自分を殴ってくると信じてやまない人間ではあるのですが、そうじゃない場合もあることぐらいは理解できます。ただ、頭で理解したことに、心も体もついてこないだけで。
でもですねー、いままで大抵そうでしたが、大人にクズクズと言われてると、自分でもそういう気になってしまうのですよ……やがて嫌われるのは自分が悪いのだという価値観に巻き込まれていき、そしていつの間にか、自分はクズであるとしっかり学習していくのですね。
そういえば、授業でもそう習いました。教室の片隅で、怖くなって、発作的に震えがとまらなくなっていました。心悸亢進でとどまっている分、まだマシともいえますが。
それと、わたしのなんでもかんでも壊す癖は、暴れずに荒れるためでしょうか。
特に大事なものは、すぐ壊れます。大事なものは自分の手の中にあるうちに壊してしまいたいし、大事なものになる前に捨てればいい。ガラクタならば、捨てても壊しても惜しくはないですし。物も、人も。ひょっとしたら自分も。
ひょっとしたら、不当なものの考え方なのかもしれません。不当どころか、おそらくはマトモではないでしょう。
それだったら、最初からわたしはマトモではありませんでした。大切なものなど、何一つ持っていなかったですし、そして何一つ持っていないからです。大事でないなら、壊すのも簡単で。
大事にしてても奪われるなら、自分の手にあるうちに壊す。
別れるのが分かっているのに人と関わるくらいなら、深い関係など作らない。
いい人というのは、自分にとって都合のいい人に過ぎない。その考え方はゆがんでいる、ということはわたしにすらできます。でも間違っているとはどうも思えません。
では、いったい幾人の方が、間違っている、と自信を持って言えるのでしょうか。
人は信じるに足りる、と本心で言える人は、いったいどれほどいるのでしょうか。