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7月31日 外出する心理屋

 皮と身の間が一番うまいとかいいますが。

 

 それはどこのことなのかといつも問い詰めたい気分でいっぱいになる。そんなところだけいつも冷静なアゼルです、こんばんは。そんな微妙なちょびっとのライン、もし存在したとしても一般人に味など分かりはしない。

 さて。

 わたしの週末はといえば、テレビを見ています以上≠ニ言い放つか、あるいはそんな自分が嫌で文句あんのかバーカ≠ニ逆ギレするかどっちかだと思うのですが、ここ最近は無理やりにでも外出するようにしています。ぶっちゃけていいますと、恋による変化です(←気持ち悪いにもほどがある)。

 ってゆーか、家にいてもいじけくさってしまうと思ったので、昨日は勉強会に出てましたし、今日は買い出しと料理と美容院に行きました。

 わたしにとって食事とは、長年エサ≠ナあって、大人にとって子どもはある種のペットでしゃべる愛玩動物で死なれたら困るから習慣的に与えられるものという意識しかなかったわけですから、一人暮らししてからも精神的には生命維持≠ンたいなものだったわけです。味覚はあってもおいしいと思わなかったのはこういう理由です。

 実は、ここ最近はその枠組みが壊れたので料理を作ってませんでしたが、それこそ本来的な生命維持のため食べないといけないレベルで食べてませんでした。好きになっても食べない(びっくりするぐらいお腹すきませんでした)、ふられても食べない(びっくりするぐらいお腹すきませんでした)。我ながら厄介と思いつつ、毎日冷や汁か冷やし中華食べてました。何の病気ですか自分。

 まあね、それだけじゃないと思いますよ。仕事のプレッシャーも溜まってきてるところでしたし、今日の外出も仕事みたいなことしてましたし。本来わたしは肩が凝らない方ですが、美容院で肩を触ってもらった時に、あまりの凝りっぷりってゆーか、

 

 店の人「肩、超凝ってますね」

 アゼル「今気づいた自分にひきました」

 

 凝ってたことにすら気づいていなかった自分に驚愕です。疲労たまり過ぎ。肩が凝るだなんて新しい自分(いらない自分がまたつけくわわってます)。

 それとわたしは美容院の人に、確かに、わりと短めに切ってもいいです、ちょっと自分を変えてみたい、などといいました。いいましたよ?確かにいいました。それは認めます。

 

 でも哀川翔みたいな髪型にセットするのはどうなのかと問いたい(←この自分は新しすぎます)。


7月28日 久しぶりですね

 医療心理師と臨床心理士の国家資格案。

 

 ぽしゃったそうです。無理だろとか言ってたら、ほんとに無理でビックリしたアゼルです、こんばんは。いろんなファクターを考慮に入れることも大切ですが、最近のわたしはシンプルに考えた方がなんだか予想が当たる傾向にあるみたいです(直観像の方がもともと強いです)。

 さて。

 ここ数日更新しなかったのは、ネタがないこともさることながら、それ以前にぜんっぜんそんな気分になれなかったからであります。もうこの際だからぶっちゃけてしまいますが、つい最近、失恋しました。ふられてしまいました。それで気分が落ち込んでました。かいつまんでいえばそういうわけです。ついでにいってしまいますが、ひきずってます。

 なんですかみなさんその目は。お前はいったいいくつになったんだと。中学生かと。ってゆーかマジキモイと。ようするにそんな目でぼくをみてるんですね。さあ笑えよ、笑いものにしなよ。ちゃんとあきらめはついたけど、そうそう次を探せる気になんかなれるかバカー!(当方、わりと悪質なからみ方をするのは自覚しております)

 どこまでも気持ちの悪いことをいわせてもらえば、アゼルりんてば、恋をしていた方が仕事をがんばれるタイプであることを発見です。自分の中で、そういうことをいう奴はワシントン条約級の珍獣だと思っていましたが、まさか自分がその珍獣だとは思いもよりませんでした。自分ではてっきりピクミンだと思ってましたが、実はガラパゴスオオトカゲだったみたいです。頭が弱い白鳥のお話みたい。

 

 みにくいアヒルの子の問題は、白鳥だと思った瞬間にイヤな自分をなかったことにしていることだと思う。


7月20日 ネガティブ・イオン半減計画

 臨床心理士と医療心理師。

 

 情報を集めてますが、当分わたしは福祉領域にいると思うので、成立しても医療心理師は取れそうにないですね。今年の臨床心理士試験、わたしも受けますけどちゃんと説明しないと誰も納得しないような気がするアゼルです、こんばんは。国家臨床心理士とか言うと、なんとなく軍のイヌ≠ニいいたくなります(違)。

 さて。

 最近、あるきっかけがあったので、真剣に自分を変えたいと思うようになりました。ってゆーか、思うだけじゃなくてちょっと服装を黒以外のものを買ってみたりしてます。ネガティブ・イオン半減計画。なんだかちょっぴりエコな雰囲気。冷静に考えるとそこはかとなくイタイです(←ネガティブ・イオン放出)。

 なんだか楽しかったり、すごく苦しかったりして、ここのところ我ながら立派に情緒不安定ですが、何かすごく人間に近づいたような気がするのです。ナニコレ?楽しいけど、いつかどん底に戻るんじゃないの?早くニンゲンになりたーい(三本目の中指から緑色の粘液を流しながら)。

 しかし今日、昼食は外で取ったのですが、店員さんが「おしんこどうぞ」といっているのが、

 

 おちんこどうぞ

 

 に聞こえた瞬間、自分が何も変わっていないことを悟りました。アゼルフィルター、久々にぎゅるんぎゅるん働いております(働かなくていいです)。

 しかもその店員ときたら、ハレンチなことにずっとおちんこどうぞといっているのですすす。あの店員はシモネタばっかり考えてる。これは嫌がらせとしか考えられないし、嫌がらせをする以上それは僕に向けられたものに違いないものだから、アメリカは核を日本に向けてるんです。撲にはわかります(←発病)。

 

 それからというもの、おちんこどうぞとしか聞こえません(当方、発病はしておりませんんんん)。


7月17日 連休

 大変大変!

 

 起床直後の口の中には、ウンコ10グラム分の細菌がいるんですって!こういう情報に素早く食いつくクセのあるアゼルです、こんばんは。いや別に、起床直後は口の中にウンコが10グラムあるっていってるわけじゃないですヨ?(イヤすぎ)

 さて。

 連休というだけですでにウンザリ気味のヒッキーのみなさんこんばんは。海の日?海に楽しい思い出なんてねーよとか思ってる方、むしろ家の日とか作れとか思ってるそこの人、あなたは決して一人ではありません。

 テストで0点をとれば馬鹿といわれるし、人間関係が苦手であればクズといわれます。よくわかりますよ。漠然と「変わりたい」とは思っても、具体的にこう「変わるぞ」と決意することがなくて世の中から取り残されてきたこともよくわかります。海に限って楽しい思い出がないのではなく、全般的に楽しい思い出が見つからないのです。当方、意外と鬼っ子です。後悔は怖いです。

 実は今回のわたし、自分でもビックリするほど活動的です。躁に入ったかと思うほど活動的です。

 昨日とか家族連れでにぎわう公園に出かけて来て、散策など楽しみました(どこが躁かは不問)。カメ、コイ、ザリガニ、カラス、カモ、アヒルなどの生き物を見て、口をぱくぱくするコイの真似をしてみたり、ザリガニに指を挟まれてみたり、アヒルの鳴きまねをして振り向かせてみたり、はたからみたらこの人に近づいてはいけないオーラを出しながら外に出ましたよ。

 それから知り合いにメールを送って、今日などは中学時代の友人と飲んできました。一人無視で一人消息不明だったのはこの際不問に伏します。想像するにつけ、心が痛みます(当方、根拠のない不吉な妄想なら誰にも負けない自信があります)。

 というような、いまだかつてない活動的な休日を過ごしているわけです(いつものex. テレビ鑑賞)。明日はテレビ以外の何をしようかとか考えてるわけです。前向き。超前向き。人間社会にデビューするのがほんの十数年ばかり遅いのが残念。

 

 ・・・・疲れて出勤できなかったらどうしよう(当方、不吉な予想は誰にも負けない自信があります)。


7月10日 開店休業願

 土曜日に、福引きで自転車が当たりました。

 

 ・・・・いらぬ。二等の「コシヒカリ食べくらべセット」の方がよっぽど欲しいと思ったアゼルです、こんばんは。自転車なんてさー、使わないんだったら処分に困るだけじゃん(なんてことは福引きの人には言いませんが)。

 さて。

 

 

開店休業願(10日と11日)

  

  

理由:トラウマスイッチが入ってるので

 

 

 書こうとはしたのですが、もう日記に全然なってないというか、完全にダメな方向に行ってしまっているのでやっぱやめました。

 しかし、わたしはどうも悪い方向悪い方向にどんどん追い込んでいっているような気がします。自分に関して一番リアリティのある感覚が口に出したら普通の人ならどん引きするよねと思えるようなシロモノであることは確かだとしても、そこからまた悪い認知を作って行動を縛っているのではないか、と思ったのです。

 自分で整理してみると、最初の感覚には共感されたり触れられたりすることを求めていて(たぶんここを否定されると自我が危険になるんだと思う)、修正する部分はそこから次の段階に出てくる認知の過程ということがわかりました。そういえば認知行動療法もこういう考え?

 

 今日思ったことは、さっそく明日のセラピーに生かそう(←職業病)。


7月7日 心理士国家資格が二つできるかもしれません

 西武新宿線のアナウンスがカタコトだった。

 

 「トビラシメマース」――カタコトはともかく、行動の主体性を感じたのでよしとしたアゼルです、こんばんは。「扉閉まります」っていうのは、どうも好みではありません。どうせなら「扉閉めます」といった方が、いっそ潔いと思いますけど。

 さて。

 今日は七夕です。

 他人が逢い引きしている日に自分の願い事を短冊に書いたら願い事がかなうなどと、筋が通らないどころかまったく何の関連性も見出せない習慣に興味はないアゼルりんですが(こういうシニカルな側面もいまだに生きてはおります)、クソみたいな願い事がかなってしまいそうな集団がいるのでヒトコトいわせていただきます。

 臨床心理士という救いようのない資格と、医療心理師という危なそうな資格が国家資格化されるかもしれないというので、ずいぶん浮かれている人々がたくさんいます(議員間で合意に達しました)。

 しかしですね、甘い。甘すぎる。これで自分の生活が安定するなどと、本当に本気で考えているのでしょうか。

 まず、法案が通るかどうかの保証が少しもありません。通常国会の会期は、延長を考えなければあと一ヶ月しかありません。郵政民営化法案や障害者自立支援法など、明らかに優先的に議論される重要法案が終わっていないわけですから、そんな短期間で成立するのでしょうか。っつーか、あんまり期待してないです。

 また、設置基準に組み込まれない限り、雇用の拡大には結びつきにくいといえます。例えば、老年性痴呆疾患治療病棟の設置基準には、精神保健福祉士あるいは心理技術員の配置が義務づけられていますが、このようにならないと雇用するかどうかはあくまで施設側の裁量範囲です。医科診療報酬だけが法律ではないのです。

 それに、何度もいってますが、人数が増えればバカが増えます。同種の資格は並列化して見られて当然ですから、あー心理屋ってやっぱ使えないよね、なんてことをいわれる時代がこないとも限りません。

 逆に、ことあるごとに精神科医に盾突いて、さも患者の話を聞いているのは自分たちで心理学の専門家だという顔をして失言を繰り返す気取り屋の臨床心理士より、賃金が安い医療心理師の方が使いやすく見られてもまったく仕方がない。それに、臨床心理士である以上、確実に医療心理師より仕事ができないと筋が通らないという無言のプレッシャーがかかります。

 それに事実上、臨床心理士が圧倒的に不利な病院領域があります。リハビリテーションと高齢者医療です。はっきりいいますが、基礎心理学をきちんとトレーニングされている臨床心理士は、そう多くはありません。医療心理師も同じ条件のように見えますが、神経心理学を専攻している認知心理学の講座はむしろ数多く、これから新規参入してくるとしたら研究的にメリットのあるこれらの講座と医局が結びつくのは想像に難くないと思います。ってゆーか、同業者としていえば、そっちの方がうなずける。

 臨床心理士と医療心理師が競合する場合、雇用者が誰を取るかはわかりませんが、どちらにしろ医療限定の話です。福祉や教育は予算が決まっているので、国家資格化したとしてもまったく関係ありません。それに、例え福祉の領域でも臨床心理士を取らないといけない決まりがあるわけではなく、医療心理師が雇用されても何の問題もないわけです。

 正直言って、今年の心理士試験で一発合格しないといけない余計なプレッシャーがかかっているので(移行措置がどうなるかまだ詳細不明なので)、福祉領域で常勤雇用されているわたしとしてはいい迷惑なところがあります。かといって、仲間たちの苦労している姿を見てますから、国家資格ができることに反対なわけでもありません。わたしのキャリアアップにつながることも確かですし。

 一番の問題点は、心理士の国家資格が二つできるということです。

 医療心理師は医療に限定されます。臨床心理士は医療・福祉・教育に渡ります。

 この馬鹿げた状況に、混乱しないと誰が言い切れるでしょうか。心理の独自路線のこだわるグループと医療現場の早期資格実現を目指すグループの泥試合の結果がこれなわけで、現場の人間は何を名乗ればいいのかというアイデンティティの問題、同僚は誰を信じていいのか、患者は誰を信用すればいいのかという問題、様々な爆弾を抱えて政治的な決着を見たように思えますが。わたし、この一連の流れで、玉虫色ということが表面的な解決であることを始めて理解しましたよ。

 

 偉そうに関係ないことに頭使うとわりと楽しい自分がわりと鬱(←逃避)。_| ̄|○


7月6日 ネコに遊んでもらう心理屋

 電車男の主演は宅八郎を持ってくるべきだ。

 

 と思うのはわたしだけではないはずだ。ことの真偽はともかく、どうも綺麗な話にもっていかれると違和感のあるアゼルです、こんばんは。なんかね、外野の中には、ないものねだりの投影とか、代理満足とか、反動形成だのといったネガティブな防衛機制があるような気がしてならないのですが。そういう分析がネガティブな投影ですけど。

 さて。

 わたしといえば、ピクミンであったり、緑色の変な汁を出したり、華道の免状を持っていたり、名前を3つ持っていたり、ロープと聞くとエロティックな映像が自動的に浮かんできたり、挙げ句の果てには心理屋だったりするなど様々な顔を持っていますが、退勤途中で新宿で一時間もネコと戯れて通行人の視線をバシバシ浴びるという顔も持っているわけです。より一般的にいえば、顔というより行動です。

 ちなみにこのネコさんとは先日も飲み会に行く前に遊んでおりまして、ampmの唐揚げを分けあった(というより一方的に分けた)仲なわけです。片思い。乙女。誰ですか?わたしをKABAちゃん扱いしてるのは。明日あたり、家がメラメラ燃えていても知りませんよ?(←やめて下さい)

 ってゆーか、これがまた誰がどうみても汚いネコで、触ると手にひっかかるような油の感触がするし、目ヤニも鼻も詰まっていて体調サイアクそうで、あんまり食べないというより食べられない方が正解だし、何より悪いのは骨が分かるほどやせ細っていてマトモに身体も支えられてない風情で、自己対象体験の剥奪というこちらの潜在的に見たくないものを見ないようにする否認の努力を掻き立てることです。コフートです。

 こんなに汚いですが、飼いネコだったか野良だったかはわからないけど、元は綺麗なネコだったんだろうなぁと思わせるのが、尻尾の動かし方とか、人への甘え方とか(一般的にはマーキング)なわけですが、何といっても目が綺麗。右目がスカイブルーで、左がグリーンアイズ。o(*´∀`*)o

 軽々しくエサをあげてはいけないというのは、大人の判断として、というより人間社会のルールとしてわかってます。でも、わたしの心の中には今でも小さな少年がいて、寂しい時には抱きしめてもらいたかったり、悲しそうな人がいたら声をかけてあげたかったりする。いま触ってるネコさんが、このままなら長くは生きられないこともわかったりする。そして何とかしてあげようとまではまったく思わない。

 それが自分のBPO親和性の現われであったり、代理満足であったり、社会的な理解をしたり、くるくると自分の世界が変わることを理解していたり、何も考えてなかったり、そういうことを外から見ている心理屋としての自分もいたり、じゃあそれを布置している自分は何なのかという日記上のアゼルというある種のゲシュタルトがあったりする、そのことを考察している自己はまたわたしなわけです。それが自分の持っている知性化の防衛の成果であることを知っているのも自己であったりするわけですが、そこの自己と数秒前の自己ではすでに別のものになっている、そのような時系列上に表現されてくる自己の点と点を粗大ながらも結んでいくのが精神分析なのかも知れませんね。ちょっと賢ぶってみました(できない奴ほどこういうことをします)。

 ええと、話を戻してヒトコトで言ってしまえばなんか気になるネコがいました≠チてだけなんですけど、この見過ごしてしまいがちな十四文字を長文に仕立てあげて、また十四文字に直していくのが心理屋の心理屋たる所以なのかもしれません。ことあるごとにリアルにこういうことを言ったりします。こういうアブナイ人はモテません。_| ̄|○

 

 ちなみに、今書いたことは全部牛乳飲んでるネコにしゃべったことです(←人間の方は違う病気です)。


7月4日 デスノート

 すごく幸せなウィークエンドでした☆

 

 その代わり、なんだか疲労感は残っていたりする。しかも客観的に考えればそんなに幸せなことでもなさそうな気がしてくるアゼルです、こんばんは。主観的な感情だから何かの比較の対象にならないとはわかってますけど、幸福感まで安上がりな自分に気づいて結局鬱になる(←病気)。_| ̄|○

 さて。

 電車に乗って帰宅する途中で、異様に長い爪のおじさんがいました。

 わたしはどんな人でもとりあえずどうでもいいやという主義ですが、さすがにどこかの部族並みに長いと注目に値してしまいます。自分とは異なる人に目が吸い寄せられるのは、偏見とは違います。久しぶりに心理屋っぽくいえば、自己のゲシュタルトと大きく異なる見慣れない他個体を見過ごせば、個体の生存に関わるという本能的な判断です。社会的な偏見とは異なります。

 ええと、話を戻しましょう。

 生存本能はともかく、爪長すぎ。ってゆーか、妙にそれなりに手入れされていてある主の武器的なものを感じざるを得ません。オヤジ、おそらくは暗器使いです。

 しかもそのおじさん、よくみたらシャツにスラックスなのに、なぜか裸足にサンダルをつっかけています。そんなおじさんが読んでいた漫画はデスノート。爪で器用にページを抑えるその姿は、むしろおまえがデスノート。間違いない。こいつ、確実に死神にシンクロしてると思う。

 それにしても、もしデスノートを自分が持っていたら、殺すリストに登録されている20人くらいは殺すんじゃないかと思いますが、思うんじゃなくて確実に全殺しですが(←物騒)、単なる私怨で一銭にもならないところが小さいような気がします。有効活用とか思いもよりません(何を?)。

 

 当方、確実に短小な人生を送っております(必殺技はネガティブ・イオン)_ト ̄|○


7月2日 ギャラリー猫町に行ってきました

 職場の机に、いろんな動物の置物をおくのが好きだったりする心理屋です。

 

 まさにミニ箱庭状態。家のキーホルダーはトトロだったりするアゼルです、こんばんは。箱庭を作るときも、人間を使えず擬人化された動物をよく使います(対象希求性はあっても人間が苦手な人がこういうパターンを示したりします)。ようするにコドモです。

 さて。

 みなさんは猫町プロジェクトっていうのをご存知でしょうか。猫好き、というよりも猫系の人が集まって作ってるもので、いろんな展覧会とかをやったりしているのです。わたしも時々見に行ってます。超癒されるーるるるーぃ(←病)。

 で、先日、台東区の谷中(最寄り駅は日暮里)にある、ギャラリー猫町に行ってきました。ってゆーかわたし、とりあえず猫が好き。猫にシャーって威嚇されるのとか好き。猫パンチとか食らうの大チュキ。そういうアタイをみんなおかしな目で見るのはイヤ。なのにちょっと心の奥底でゾクゾクするものを感じてる(←ド変態)。

 などと嫌がられると安心するという、どこか果て系の病んだ世界に逝ってしまいやすい共依存の心理屋なわけですが、そんなこんなで猫が好きなわけです。一見すると意味が分かりませんが、ようするに理由はないといっているわけで(当方、使用する言葉に若干の通訳が必要な時があります)。

 まあね、猫の置物とか見て、安いのを買って、日暮里界隈を散歩して、喫茶店でお茶を飲んで、そこの猫さんに挨拶したりしてココロの栄養補給とかをしたわけです。ネコビタンDなわけです(ぷぷっ)。

 ええと、こういう時は他人と世界をあんまり共有する気がない、平たくいえば疲れているわけですが、なんにせよ休息とか切りかえって大事です。わたしは特にそういうことがヘタなタイプでストレスをもろかぶりしてしまうタイプですから、ときおり鬱になれる病的な時間が逆に必要なのかもしれません。

 それにしても、就職して良かったことの一つは、こういうことにお金が使う物理的な余裕があることかもしれないなぁと思います。いま自分的な欲しいものランキングって、一位バイク、二位パソコン、三位猫ですもん。ただ、猫が家にいたら出勤したくなくなる可能性があって危険。

 

 ・・・・ストレスの原因はたいてい仕事なんですけど。_| ̄|○


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